お友達に半身浴を薦められ、やってみましたがうまく行きません。
鼻や耳にお湯が入ってしまいます。
右半身ですか?左半身ですか?
困っています。
"お友達に半身浴を薦められ、やってみましたがうまく行きません。
鼻や耳にお湯が入ってしまいます。
右半身ですか?左半身ですか?
困っています。
"宮本浩次の最後のルールはシンプルで、なおかつとても力強いものだ。
『届け!!という一心で歌う。』
僕らがテレビで目にする宮本の印象は「我が道を行く」というものではないかと思う。しかし、一方で音楽番組などでインタビューなどに答える宮本の髪をかきむしりながら、一生懸命全身を使いながら身振り手振りを駆使しながらしゃべる姿はひたむきで生真面目な印象を受ける。
『ウソは言わないようにしようっていうのはあるんですよ。
でも一番、アレなのは生番組とかの中で、その、まとめるのがなかなか……、どれを言ったらいいんだろうっていうのを、すごく一番考えちゃうんですよね。
だから、そのラジオとかテレビとか取材とかのときは、もう、その、相手との距離もさることながら、その向こうにいる人にどういう風に言うと一番分かりやすいのかなっていうのを、一応考えるようにはしてるんですよ。
結果的に全然、錯綜してる事が多いようなんですけど、結果的にね。』
"名言が続出したこの回で、まず一つ目のルールとして宮本が披露したルールは『白と黒以外着ない』。
「これは僕の最低限の主張」だという。
『それは大人になったんだから身なりのこととかも、それは憧れはあるんです。
でもなかなかそこに到達できないというか、それはなぜなら自分の歌を精一杯歌って、そして自分たちの表現をちゃんと形にするっていう、それ自体すごく意味があるんですね。
宮本にももちろん様々なやりたいこと、憧れがある。それは例えば「正装してレストランで食事する」というようなことだという。
でも僕らはそんなに時間があるわけがなくて、「いつか、いつか」っていつもそういうふうに思って生きてきたんだけど、いっぱいいっぱい憧れがあってさ、でも、そんなの一個一個やってくと、そんなの間に合わないってことに気づいたの。
(略)
でも、その(食事をしたりして)くつろぐのは、もしかすると一曲いい曲が出来てみんなに届いた時の方が、もっとくつろぎが大きかったらさ、そっちのくつろぎを採るんだよ。
僕は、歌を歌って、みんなにその歌が届いたことが一番のごちそうだってことに気づいたんだよ。』
この番組の中で宮本は頻繁に「届く」とか「伝える」という言葉を口にしていた。
というよりも、彼の「10のルール」のほとんどが、いかに人に「伝える」か、「届ける」かに基づいたものだった。
"現代のNYサウンドの革新性と論理性、そしてなにより音楽性の豊かさについては、
今後よりいっそう語られるところとなるだろう。
そして、それがどんな背景とそれにともなう危機感に促されて現れたかについても、
折に触れ思い出されることだろう。
それは、たとえばサッチャー政権下にザ・クラッシュの登場を見ることや、
取り残されたレーガノミクスの罪としてニルヴァーナを見つめることと
同様の歴史観と、それがもたらす未来への智恵を、
われわれに届けてくれることになるはずだ。
そのとき、思い起こされるべきもうひとつのワードに、
パンクも加えておきたい。
パンクといっても、それは、
昨今流通しているグリーン・デイが象徴するような類のものでも、
あるいは、ラモーンズやピストルズが体現するようなものでもない。
それは奇しくも1980年を前後としてリリースされた
3枚のアルバムとその担い手たちのことだ。
よくいわれるように、
現在のNYサウンドにデヴィッド・バーンの影響を認めることは容易だ。
アフリカン・ビートを大胆に導入し、
イーノからブリューまでむさぼるように音楽ツールを駆使して
構築された
「リメイン・イン・ライト」のサウンドは、
アカデミックに論理付けられたフリー・スタイルを今に手渡した。
あるいは、現在のNYミュージシャンからフェイバリットにあげられることも多い
XTCのアンディ・パートリッジは、
ポップへの偏執狂ぎみなトライアルを重ねていったことでも知られる英国人だ。
スペクタクルな曲展開、奔放なミックスのバランス、そして何より、
音への執着。
アルバム「ブラック・シー」の荘厳は、破壊のニュー・ウェイヴが奇跡的に生み出した永久建築だ。
そういう意味では、スクリッティ・ポリッティのグリーン・ガートサイドも
忘れることはできないだろう。
ウェールズ出身のひとりパンクスが突如目の前に提出したアルバム
「キューピッド&サイケ」のスリリングなシンセサイザー・ワークは、
いまなおその輝度において他を圧する、ひとつの世界を形成する。
デヴィッド・バーンとアンディ・パートリッジ、そしてグリーン。
彼らは、奇しくもパンク第1世代に属しながら、
そして、いまなお異彩を放つ作品を残しながら、
その王道で語られるよりも、
特別な傍流として、その功績を記されてきた。
つまり、その共通するところは、「辺境」ということだった。
彼らは、パンクという改革運動の渦中にありながら、
さらに独自の王国を独自に築き上げた奇才たち、だったのである。
現在のNYサウンドに、彼らの痕跡を強く認めることは、
必然なのかもしれない、と思うのである。
それはもう、長い間、自分たちは死んでいる、ということだと思う。
アメリカン・ギター・ロックがなにゆえなのか、
ロックにおける良識の部分を担いだしてから以降、
彼ら白人ミュージシャンは、
自分たちが象徴する「存在」は、とっととこの世界の表舞台から降り、
ひっそりといなくなるべきだという諦念を歌うようになって久しい。
それは、ギター・ロックが不遇の80年代を経て90年代になると、
オルタナティヴと呼ばれる作法の中でいっきに噴出した事態だった。
それはもう、ほとんど消え入りそうになっていったのである。
それはなぜだったのだろうか。
いまもまだ続くそのような彼らの思いの理由については、
すでにいろいろと言われていることもあるし、
いつかじっくり考えてみたいことでもあるけれど、
その中でも、とりわけ「死んでしまっていた」音を出していたのが、
GRANDADDYだった。
そのフロントマン、JASON LYTLEのファースト・ソロとなる今作も、
ものの見事に幽霊である。
以前に森博嗣の小説で見かけたこと。
欧米の集団の繋がりはjoinだが、日本の集団は「俺も混ぜてくれ」という言葉通り、mixなのだと言うこと。
これはとても印象に残っている。(出典となる小説は失念)
確かに欧米はjoinによって繋がっていくリンクリストみたいな感じがして、そのjoinの連鎖が数多く発生していて、最終的には複雑に絡み合ったチェーンみたいな気がしている。
これは、直接その集団に触れた訳ではないので思いこみも入っているだろうけれど、Webサイトにおける繋がりも欧米のコミュニティも、それらの人々が書く書籍にもそうした色が濃く現れているように感じる。チェーンの中をけたたましくエネルギが行き交う感じがして仕方がない。
そして、やっぱり日本はmixであって集団に溶けこむ事で個を失っていくというか、mixiのように繋がっていても集団の中で個は打ち消されていくような感じをうける。
自分が自分であることは許されないというか、人格も性癖も特徴も個性も抑圧されて、ただひたすらに集団の構成要素であることを求められているような気がする。(例えばmixiにおける暗黙的な儀礼などがそれ)
要するに日本において集団に溶けこめない人たちというのは、このmixにおける打ち消しに常に反発を覚えるのではないのかなぁ、と感じたということ。
組織なんてものはその最たるもので、出来るだけ個を特出させないような仕組みなってしまっている。卓越した技能があっても、組織に適さないということで放逐される人もいるし、放逐されないまでも槍玉に挙げられるのがしばしばだ。
"アマテラスは引きこもり、紫式部は腐女子、清少納言はブログ女、紀貫之はネカマ、かぐや姫はツンデレ、
聖武天皇は収集ヲタで正倉院はヲタ部屋、後白河法皇は最新流行の追っかけ、秀吉はコスプレじじぃ、
狂言は第一次お笑いブーム、鎌倉末期は新興宗教ブーム、戦国の茶道は萌え喫茶ブーム
江戸期に入るとエロパロ二次創作がこれでもかってぐらい溢れかえっている。
事の良し悪しは置いといて、日本人は伝統的に変態遺伝子を受け継いでいるのは事実だ。
外国人から指摘されたとしても悪びれる必要はない。堂々と千年変態だと答えればいい。